『人間とは何か』 マーク・トウェイン著
■『人間とは何か』マーク・トウェイン著
マーク・トウェインの人間観を投影したのが本書。構成は老人と青年の会話形式の小説になっています。
老人(マーク・トウェイン)は、人間は≪環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない≫と言います。つまり、人間には「自由意志」などなく、単に環境や外的要因によって生かされているにすぎないと主張します。青年は必死でそれに反論しようとあれこれ言い立てますが、やはり老人の方が説得的だと僕は思いました。
たとえば老人は「人間の心=自動機械」だと考えます。
≪青年―人間、要するに機械にしかすぎんてことを、あなたは本気で考えとられるんですか?
老人―そうとも。
青年―それからまた、人間の心なんていっても、結局それは自動機械みたいなもんで、コントロールなんてことは一切利かん―それはそれだけで勝手に考えるもんだってこともですか?
老人―そうとも。p103≫
≪老人―心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構いなしに考えつづけることもする。p106≫
≪老人―心って奴はあくまでも機械、完全に独立した自動機械なんだ。p111≫
≪青年― …つまり、僕がもし僕の心を勝手に放任してさえおけば、心って奴は、いくらでも自分で考えごとの材料は見つけ出してくる。僕のお節介など一切いらん。そして結局は、心ってものが、要するに一つの機械、しかも外からの力で動かされている自動機械にしかすぎんてことを証明してくれるはず。つまりいや、心なんてもの、誰か他人の頭蓋骨の中にあったところで、ちっとも変わらんほど、いわばそれほど独立したものなんだとおっしゃった…
老人―そうさ。p113≫
≪老人―人間はただ知覚するだけの動物。知覚されたものを自動的に結合するのは、つまり、その頭脳という機械なんだな。それだけの話さ。p117≫
≪老人―思うにだな、鼠の心も人間の心も、機械って点じゃ同じなんだ。p124≫
また、利他的行動によって老婆を救った男に対して老人は次のように言い放ちます。
≪老人― …いまの男の場合にしてもだよ、本当は自由意志なんてもの持ってなかった。ただ彼の気質だとか、教育だとか、そのほか、そのときの彼を形成し、つくり上げてた毎日の外部影響って奴、それがいやでも彼をそうさせただけにすぎん。つまり、老婆を救うとともに、それによって彼自身をも救おうっていう衝動が、そうさせたにすぎんのだな―さらにいえば、彼自身をその精神的苦痛、たまらないみじめさから救おうとしてやっただけの話だよ。彼が選んだんじゃない。彼自身にもどうにもならんいくつかの力がよって、いわば彼のためにした選択にすぎん。自由意志なんてのは、いつもただ言葉としてあるだけのものなんで、思うにただそれだけの話だな―事実じゃァない。自由意志―わしはそんな言葉、使いたくないね。使うなら、ほかの言葉を使う。p145≫
そしてまた老人は、「物質的価値など存在しない。あるのは精神的価値のみ」だと主張します。
≪老人― …物質的価値なんてものはない。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。いくら現実、実在の物質的価値なんてものを探し求めたところで、無駄な話―そんなもはありゃしないんだから。p151≫
≪老人― …金銭もまたシンボルにすぎん。物質的価値なんてものは全然ない。君自身はだよ、金自体のために金をほしがってるつもりかもしらんが、それはウソさ。…ある男のこれは話だが、実にあわれな話がある。その男ってのはな、たえず不満で落着きがなく、奴隷のように汗水流して働いたってんだ。そしてとうとう大した産をなした。大いに幸福だったな、有頂天だったな。が、そのときだった、たった一週間の間に、愛するもののすべてを根こそぎ疫病で奪られちまって、あとは、まったくの一人ぽっちになっちまったってんだな。財産の価値は一挙に失われちまった。そこではじめて悟ったんだが、物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。一つにそれが家族のものに与えているうれしそうな顔、それをまた目のあたり観ている彼自身の精神的満足にあったってことが、はじめてわかったんだな。なにも金そのものに物質的価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちまえば、あとにのこるものは鉄屎だけなんだ。すべてのものがそうなんだ。p151〜152≫
最後に老人は、「わたし」とは誰か、という問題に対して次のように展開します。
≪老人― …「わたし」とは誰か、「わたし」とは何かってこの問題、決して簡単じゃないんだな。たとえば君は「わたしは虹の美しさをほめる」って言った。また、「わたしは世界が円いと信ずる」とも言った。だが、そうした場合、よく考えてみりゃ、なにも必ずしも「わたし」のすべてがそう言ってるわけじゃないんだな、言っているのは、ほんの知の部分だけにすぎんのだ。…つまり、われわれ人間ってのはな、みんなこうした実にアイマイな形で「わたし」って言葉を使ってるんだ、やむをえんのかもしれんがね。言葉をかえていや、われわれ人間って奴はだな、君のいうその「全体」―青年は、「わたし」とはすべてを一つにしたある全体と考える―って奴の上に、なにかある主人、そして王ともいうべきものを想定した上で、そいつを「わたし」と呼んでいるだけ。
だから、さてそれを定義づけるとなると、たちまち困る、できんのだよ。現に知性と感情とはだ、お互いに完全に独立してはたらく。われわれにもそれはわかる。だもんだから、ついあたりを見まわしてだな、なにかその両者を統合するような支配者とでもいうか、いわば確乎不動の「わたし」として通用するものを探し求めるんだよ。いま一つ言えばだな、その「わたし」っていう代名詞を使う場合、いったい何をそれは意味してるんだか、誰のこと、なんのことを言ってるんだか、それをはっきりさせてくれるような統合者を求めるわけなんだな。ところが、もちろん、そんなことは諦めるよりほかない。そんなものはいないと正直に白状するよりほかないんだ。
そこで、わしにいわせればだな、所詮人間ってのは機械。ただの道徳メカニズム、そして知的メカニズムと、いろんなメカニズムからできてるだけにすぎん。しかもそれらのメカニズムって奴はだな、それぞれ内なる主人の衝動にしたがって、まったく自動的に作用(はたら)くにすぎんし、そのまた内なる主人って奴がだ、これはただ生来の気質と、そして無数の外部からの影響、教育の集積とから成ってるにすぎんてことだな。だからして、この機械の唯一の機能ってのは、要するに内容の善悪を問わず、ただこの主人の欲求ってかぎりにおいて、精神的満足感をえようってだけのことなんだよ。この機械の意志、これはもう絶対なんで、したがうよりほかにないし、また事実つねにしたがわれてる。
青年―おそらくその「わたし」ってのが「霊魂」なんでしょうね?
老人―そうかもしれん。だが、その「霊魂」ってのは、そもそもなんだね?
青年―いや、よくわかりませんが。
老人―そうだろう、誰にもわかるはずがない。p156〜157≫
以上がマーク・トウェインの人間観の概要です。
これは単なる人間観であって、マーク・トウェインが日常生活で人間はみんな機械だと見做して生きていたわけではないと思います。「人間とは何か」と考えた場合、説得的に論ずる方法として「人間=機械」と想定して考えればそれなりに説明できるというだけの話です。
利己的遺伝子説で有名なドーキンスは「生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎない」と言いました。つまり、「われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」と。しかし、これも生物の進化を考える場合、最も説得的に論ずる方法としての仮説であって、そう考えればうまく物事を説明できるというだけの話です。日常生活で人を見るとき、遺伝子の乗り物だとは見ない、というか見れるはずがない。
世界観や人間観はある一つのものの見方考え方であって、世の理不尽さや不条理さを沈めて受け入れ可能なものにする一つの方法だと思います。
マーク・トウェインの人間観を投影したのが本書。構成は老人と青年の会話形式の小説になっています。
老人(マーク・トウェイン)は、人間は≪環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない≫と言います。つまり、人間には「自由意志」などなく、単に環境や外的要因によって生かされているにすぎないと主張します。青年は必死でそれに反論しようとあれこれ言い立てますが、やはり老人の方が説得的だと僕は思いました。
たとえば老人は「人間の心=自動機械」だと考えます。
≪青年―人間、要するに機械にしかすぎんてことを、あなたは本気で考えとられるんですか?
老人―そうとも。
青年―それからまた、人間の心なんていっても、結局それは自動機械みたいなもんで、コントロールなんてことは一切利かん―それはそれだけで勝手に考えるもんだってこともですか?
老人―そうとも。p103≫
≪老人―心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構いなしに考えつづけることもする。p106≫
≪老人―心って奴はあくまでも機械、完全に独立した自動機械なんだ。p111≫
≪青年― …つまり、僕がもし僕の心を勝手に放任してさえおけば、心って奴は、いくらでも自分で考えごとの材料は見つけ出してくる。僕のお節介など一切いらん。そして結局は、心ってものが、要するに一つの機械、しかも外からの力で動かされている自動機械にしかすぎんてことを証明してくれるはず。つまりいや、心なんてもの、誰か他人の頭蓋骨の中にあったところで、ちっとも変わらんほど、いわばそれほど独立したものなんだとおっしゃった…
老人―そうさ。p113≫
≪老人―人間はただ知覚するだけの動物。知覚されたものを自動的に結合するのは、つまり、その頭脳という機械なんだな。それだけの話さ。p117≫
≪老人―思うにだな、鼠の心も人間の心も、機械って点じゃ同じなんだ。p124≫
また、利他的行動によって老婆を救った男に対して老人は次のように言い放ちます。
≪老人― …いまの男の場合にしてもだよ、本当は自由意志なんてもの持ってなかった。ただ彼の気質だとか、教育だとか、そのほか、そのときの彼を形成し、つくり上げてた毎日の外部影響って奴、それがいやでも彼をそうさせただけにすぎん。つまり、老婆を救うとともに、それによって彼自身をも救おうっていう衝動が、そうさせたにすぎんのだな―さらにいえば、彼自身をその精神的苦痛、たまらないみじめさから救おうとしてやっただけの話だよ。彼が選んだんじゃない。彼自身にもどうにもならんいくつかの力がよって、いわば彼のためにした選択にすぎん。自由意志なんてのは、いつもただ言葉としてあるだけのものなんで、思うにただそれだけの話だな―事実じゃァない。自由意志―わしはそんな言葉、使いたくないね。使うなら、ほかの言葉を使う。p145≫
そしてまた老人は、「物質的価値など存在しない。あるのは精神的価値のみ」だと主張します。
≪老人― …物質的価値なんてものはない。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。いくら現実、実在の物質的価値なんてものを探し求めたところで、無駄な話―そんなもはありゃしないんだから。p151≫
≪老人― …金銭もまたシンボルにすぎん。物質的価値なんてものは全然ない。君自身はだよ、金自体のために金をほしがってるつもりかもしらんが、それはウソさ。…ある男のこれは話だが、実にあわれな話がある。その男ってのはな、たえず不満で落着きがなく、奴隷のように汗水流して働いたってんだ。そしてとうとう大した産をなした。大いに幸福だったな、有頂天だったな。が、そのときだった、たった一週間の間に、愛するもののすべてを根こそぎ疫病で奪られちまって、あとは、まったくの一人ぽっちになっちまったってんだな。財産の価値は一挙に失われちまった。そこではじめて悟ったんだが、物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。一つにそれが家族のものに与えているうれしそうな顔、それをまた目のあたり観ている彼自身の精神的満足にあったってことが、はじめてわかったんだな。なにも金そのものに物質的価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちまえば、あとにのこるものは鉄屎だけなんだ。すべてのものがそうなんだ。p151〜152≫
最後に老人は、「わたし」とは誰か、という問題に対して次のように展開します。
≪老人― …「わたし」とは誰か、「わたし」とは何かってこの問題、決して簡単じゃないんだな。たとえば君は「わたしは虹の美しさをほめる」って言った。また、「わたしは世界が円いと信ずる」とも言った。だが、そうした場合、よく考えてみりゃ、なにも必ずしも「わたし」のすべてがそう言ってるわけじゃないんだな、言っているのは、ほんの知の部分だけにすぎんのだ。…つまり、われわれ人間ってのはな、みんなこうした実にアイマイな形で「わたし」って言葉を使ってるんだ、やむをえんのかもしれんがね。言葉をかえていや、われわれ人間って奴はだな、君のいうその「全体」―青年は、「わたし」とはすべてを一つにしたある全体と考える―って奴の上に、なにかある主人、そして王ともいうべきものを想定した上で、そいつを「わたし」と呼んでいるだけ。
だから、さてそれを定義づけるとなると、たちまち困る、できんのだよ。現に知性と感情とはだ、お互いに完全に独立してはたらく。われわれにもそれはわかる。だもんだから、ついあたりを見まわしてだな、なにかその両者を統合するような支配者とでもいうか、いわば確乎不動の「わたし」として通用するものを探し求めるんだよ。いま一つ言えばだな、その「わたし」っていう代名詞を使う場合、いったい何をそれは意味してるんだか、誰のこと、なんのことを言ってるんだか、それをはっきりさせてくれるような統合者を求めるわけなんだな。ところが、もちろん、そんなことは諦めるよりほかない。そんなものはいないと正直に白状するよりほかないんだ。
そこで、わしにいわせればだな、所詮人間ってのは機械。ただの道徳メカニズム、そして知的メカニズムと、いろんなメカニズムからできてるだけにすぎん。しかもそれらのメカニズムって奴はだな、それぞれ内なる主人の衝動にしたがって、まったく自動的に作用(はたら)くにすぎんし、そのまた内なる主人って奴がだ、これはただ生来の気質と、そして無数の外部からの影響、教育の集積とから成ってるにすぎんてことだな。だからして、この機械の唯一の機能ってのは、要するに内容の善悪を問わず、ただこの主人の欲求ってかぎりにおいて、精神的満足感をえようってだけのことなんだよ。この機械の意志、これはもう絶対なんで、したがうよりほかにないし、また事実つねにしたがわれてる。
青年―おそらくその「わたし」ってのが「霊魂」なんでしょうね?
老人―そうかもしれん。だが、その「霊魂」ってのは、そもそもなんだね?
青年―いや、よくわかりませんが。
老人―そうだろう、誰にもわかるはずがない。p156〜157≫
以上がマーク・トウェインの人間観の概要です。
これは単なる人間観であって、マーク・トウェインが日常生活で人間はみんな機械だと見做して生きていたわけではないと思います。「人間とは何か」と考えた場合、説得的に論ずる方法として「人間=機械」と想定して考えればそれなりに説明できるというだけの話です。
利己的遺伝子説で有名なドーキンスは「生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎない」と言いました。つまり、「われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」と。しかし、これも生物の進化を考える場合、最も説得的に論ずる方法としての仮説であって、そう考えればうまく物事を説明できるというだけの話です。日常生活で人を見るとき、遺伝子の乗り物だとは見ない、というか見れるはずがない。
世界観や人間観はある一つのものの見方考え方であって、世の理不尽さや不条理さを沈めて受け入れ可能なものにする一つの方法だと思います。