『嫌われ松子の一生』&『ミリオンダラー・ベイビー』を観る
『嫌われ松子の一生』
一口でざっくり言えば、53歳で少年らに撲殺され、河川敷で死体となって発見された「松子」(中谷美紀)の人生を振り返る映画。
なんと不幸な人生だろう。
いや、まてよ。はたして松子の人生はほんとうに不幸だったのか。
などといろいろ考えさせられる映画でもある。
冒頭こんなセリフから始まる。
≪夢をみるのは自由だ。でもその夢を叶え、幸福な人生を送れるやつなんてほんの一握りで…≫
そして「松子」は言う。
≪小さい頃は誰でも自分の未来がきらきら輝いてるって思うでしょ。でも大人になると、自分の思い通りになることなんて一つもなくて、辛くて、情けなくて、逆切れして…≫
ある日、松子はヒモ(武田真治)を殺して刑務所入る。
そこでこんな挿入歌が流れる。
What is a Life, What is a Life
ここでは人が起きて、働いて、食べて、眠るだけ
それが人生なら
What is a Life, What is a Life
何もすることのないカベの中で、
人は何を感じ生きていくのだろう?
(What is a Life?)彼女は家族のために
(What is a Life?) 自分のプライドのために
(What is a Life?) 手放せない思い出のため
(What is a Life?) 愛だけのために生きてく
(What is a Life?) 金だけのために生きる
What is a Life, What is a Life
朝、目が覚めればまた同じコトのくり返し…
同じ顔、同じ場所で
What is a Life, What is a Life
何を思いながら人は生きていくのだろう…
あなたは何のために生きてる?
前半部分はこんな感じだ。
だが、後半では一転して「愛があれば生きられる」みたいになる。
I'm living for a love.
愛があれば 生きていける Love is life!
中谷 「胸の奥が あたたかくて 苦しくて」
Ai 「少しずつ、愛の力が彼女を変えてく」
中谷 「神様まだ 生まれ変わる ことができるなら」
Ai 「人は変われるの」
中谷 「気づいたの」
Ai 「今」
中谷 「ずっと」
Ai 「進む」
中谷 「生きる」
Ai 「愛のために!」
I'm living for the love. 愛を抱いて 生きていくわ ずっと
たったひとつ 愛のために 生きていくわ ずっと
たったひとり あなたのため 生きていくわ Love is life.
すべて捧げ あなたのため 生きていくわ Love is life.
愛している あなたの声 聞きたかった ずっと
「おかえり」って 言って…
Love is life… (『What Is A Life』)
これは、たとえ世界中のあらゆる人に嫌われ続けたとしても、
たったひとり自分が愛している人から「愛してる」と言われればそれが一発逆転するという発想だ。
たとえこれが不可能(幻想)であったとしても、これに賭けるのが松子の生き方なのだろう。
こうやって松子は生きて死んでいった。
もしこの松子の一生が不幸だとしたら、世の大半の人たちの人生はもっと不幸で色あせた人生に見えてしまう。
そんなふうに感じた。
『ミリオンダラー・ベイビー』
一口説明すれば、こんな映画。
≪トレーラー育ちの不遇な人生から抜け出そうと、自分のボクシングの才能を頼りにロサンゼルスにやってきた31歳のマギー(ヒラリー・スワンク)と、実の娘に縁を断たれた初老のトレーナー(クリント・イーストウッド)との間に生まれた絆を描くヒューマン・ドラマ。≫しかし、この映画はよくありがちなボクシングで一発逆転式の人生成功物語ではない。
マギーは言う。
≪13の歳からウェイトレス続けていつのまにか20年。また一年が過ぎたわ。あなたの説によればまともなパンチが打てるようになるのは37ね。スピードバックを始めて一ヶ月たつけど、まるっきり進歩ないからその通りかも…。私の家はね、弟は務所、妹は子供がまだ生きていることにして母子手当てを騙し取り、父は死んで、母は145キロの超デブ。本当なら私もさっさと田舎に帰って中古トレーラーを見つけ、毎日フライを食べてるべきかも…。でも私、初めて楽しいことを見つけたの。≫
そしてマギーは、≪瞬く間にチャンピオンの座を狙うまでに成長。同時に、実娘に何通手紙を出しても送り返されてしまうフランキーと、家族の愛に恵まれないマギーの間には、師弟関係を超えた深い絆が芽生えていく。≫
しかしマギーは、タイトルマッチでチャンピオンの不意打ち反則攻撃によって全身麻痺(首から下がまったく動かない)状態になってしまう。そしてマギーのトレーナーであるフランキーは、葛藤の末にマギーの呼吸器を外し安楽死させる。
フランキーが「安楽死」を決断した直前に交わされたスクラップ(モーガン・フリーマン)とのセリフが印象に残った。
≪スクラップ:「ここに来たときマギーにあったのはガッツだけ。プロのボクサーになれるチャンスは皆無だった。それが一年半後には世界タイトルに挑んでいた。あんたの力だ。人は毎日どこかで死んでる。床を拭いたり皿を洗ったり、<人生こんなはずじゃなかった>と悔いを残して死んでいく。だが、マギーには悔いなどない。もし今日死んでも、彼女の最後の思いは、<精一杯人生を生きた>だ。俺もそう思って死にたいが…。」
フランキー:「ああ…そうだ……そうだな…」≫
最後はハッピーエンドではなく後味の悪さが残る。
つまり、宿題のようなものが突きつけられる。
そんな映画だった。
二つの映画に共通している点は、人生とは不条理である、という点だ。
どんなに努力してもその努力が報われるとは限らない。
ずっとうまくいっていたとしても最後の最後で足払いされてコケて終わり。
愛する人には裏切られ、振り向けば必ず嫌なやつがいたりする。
毎日同じことの繰り返し。
しかも失敗したり傷ついたりして嫌な感情は常に自己制御不可能な状態で突如襲ってくる。
それを表現する言葉は見当たらず、毎日憂鬱な精神で眠りにつき、ひとまずリセットする。
しかしまた同じことが今日も、そして明日も起こるのだ。
こうやって時間は過ぎ去っていき、最後は死んで燃やされて土の中に埋められるのだ。
こんなの嫌だ、といっても「生まれたんだからしょうがない」。
人生とは不条理そのものなのだから、それでしょうがないのだ。
二つの映画で共通している点がもう一つだけあるとしたら、それはその不条理を強めたり弱めたりするのは常に「人間関係」だということだ。しかし、あらゆる「人間関係」は「孤独」とワンセット。結局最後はひとりで死ななくちゃならない。だから、どうがんばっても仕方ないのだ。「どうがんばっても仕方ないなら死んじゃえばいい」(完全自殺マニュアル的発想)ってのも一つの答えだし、「だったら生きてやる」ってのも一つの答えだ。あとはどちらに傾くか。
それを左右するのは人生の「意味」か、「目的」か、「理由」か、それとも「気分」か。いや、いちいちこんなこと考えない方がいいのかもしれない。パスカル的な「気晴らし」によって人生のモヤモヤを雲散霧消させ思考停止させて死んだようにミイラのようになって生きるのも一つの解決策なのかもしれない。
そして、「偶然」が自分の人生を決めてしまうという不条理(受け入れ不可能なもの)を、「運命」(必然)が自分の人生を決めているのだという条理(受け入れ可能なもの)になんとか置き換える装置―スピリチュアル系や自分探し、そして宗教にいたるまで―に頼りきって生きるのも一つの方法だろう。
しかし、それはその程度で片付く問題なのか。
その程度で片付く問題だとしたら、そもそも人生ってすごく浅くて薄っぺらいもののように思えてくる。
そしたら不条理って、そもそも人生を深化させるものなのかもしれないって思えてきた。
だったらそれを癒したり考えなかったり、条理に変換してごまかしたりせずに、素直に受け入れるしか方法がないのではないか―。今回観た映画の主人公は、実際にそのように生きた人たちだった。
一口でざっくり言えば、53歳で少年らに撲殺され、河川敷で死体となって発見された「松子」(中谷美紀)の人生を振り返る映画。
なんと不幸な人生だろう。
いや、まてよ。はたして松子の人生はほんとうに不幸だったのか。
などといろいろ考えさせられる映画でもある。
冒頭こんなセリフから始まる。
≪夢をみるのは自由だ。でもその夢を叶え、幸福な人生を送れるやつなんてほんの一握りで…≫
そして「松子」は言う。
≪小さい頃は誰でも自分の未来がきらきら輝いてるって思うでしょ。でも大人になると、自分の思い通りになることなんて一つもなくて、辛くて、情けなくて、逆切れして…≫
ある日、松子はヒモ(武田真治)を殺して刑務所入る。
そこでこんな挿入歌が流れる。
What is a Life, What is a Life
ここでは人が起きて、働いて、食べて、眠るだけ
それが人生なら
What is a Life, What is a Life
何もすることのないカベの中で、
人は何を感じ生きていくのだろう?
(What is a Life?)彼女は家族のために
(What is a Life?) 自分のプライドのために
(What is a Life?) 手放せない思い出のため
(What is a Life?) 愛だけのために生きてく
(What is a Life?) 金だけのために生きる
What is a Life, What is a Life
朝、目が覚めればまた同じコトのくり返し…
同じ顔、同じ場所で
What is a Life, What is a Life
何を思いながら人は生きていくのだろう…
あなたは何のために生きてる?
前半部分はこんな感じだ。
だが、後半では一転して「愛があれば生きられる」みたいになる。
I'm living for a love.
愛があれば 生きていける Love is life!
中谷 「胸の奥が あたたかくて 苦しくて」
Ai 「少しずつ、愛の力が彼女を変えてく」
中谷 「神様まだ 生まれ変わる ことができるなら」
Ai 「人は変われるの」
中谷 「気づいたの」
Ai 「今」
中谷 「ずっと」
Ai 「進む」
中谷 「生きる」
Ai 「愛のために!」
I'm living for the love. 愛を抱いて 生きていくわ ずっと
たったひとつ 愛のために 生きていくわ ずっと
たったひとり あなたのため 生きていくわ Love is life.
すべて捧げ あなたのため 生きていくわ Love is life.
愛している あなたの声 聞きたかった ずっと
「おかえり」って 言って…
Love is life… (『What Is A Life』)
これは、たとえ世界中のあらゆる人に嫌われ続けたとしても、
たったひとり自分が愛している人から「愛してる」と言われればそれが一発逆転するという発想だ。
たとえこれが不可能(幻想)であったとしても、これに賭けるのが松子の生き方なのだろう。
こうやって松子は生きて死んでいった。
もしこの松子の一生が不幸だとしたら、世の大半の人たちの人生はもっと不幸で色あせた人生に見えてしまう。
そんなふうに感じた。
『ミリオンダラー・ベイビー』
一口説明すれば、こんな映画。
≪トレーラー育ちの不遇な人生から抜け出そうと、自分のボクシングの才能を頼りにロサンゼルスにやってきた31歳のマギー(ヒラリー・スワンク)と、実の娘に縁を断たれた初老のトレーナー(クリント・イーストウッド)との間に生まれた絆を描くヒューマン・ドラマ。≫しかし、この映画はよくありがちなボクシングで一発逆転式の人生成功物語ではない。
マギーは言う。
≪13の歳からウェイトレス続けていつのまにか20年。また一年が過ぎたわ。あなたの説によればまともなパンチが打てるようになるのは37ね。スピードバックを始めて一ヶ月たつけど、まるっきり進歩ないからその通りかも…。私の家はね、弟は務所、妹は子供がまだ生きていることにして母子手当てを騙し取り、父は死んで、母は145キロの超デブ。本当なら私もさっさと田舎に帰って中古トレーラーを見つけ、毎日フライを食べてるべきかも…。でも私、初めて楽しいことを見つけたの。≫
そしてマギーは、≪瞬く間にチャンピオンの座を狙うまでに成長。同時に、実娘に何通手紙を出しても送り返されてしまうフランキーと、家族の愛に恵まれないマギーの間には、師弟関係を超えた深い絆が芽生えていく。≫
しかしマギーは、タイトルマッチでチャンピオンの不意打ち反則攻撃によって全身麻痺(首から下がまったく動かない)状態になってしまう。そしてマギーのトレーナーであるフランキーは、葛藤の末にマギーの呼吸器を外し安楽死させる。
フランキーが「安楽死」を決断した直前に交わされたスクラップ(モーガン・フリーマン)とのセリフが印象に残った。
≪スクラップ:「ここに来たときマギーにあったのはガッツだけ。プロのボクサーになれるチャンスは皆無だった。それが一年半後には世界タイトルに挑んでいた。あんたの力だ。人は毎日どこかで死んでる。床を拭いたり皿を洗ったり、<人生こんなはずじゃなかった>と悔いを残して死んでいく。だが、マギーには悔いなどない。もし今日死んでも、彼女の最後の思いは、<精一杯人生を生きた>だ。俺もそう思って死にたいが…。」
フランキー:「ああ…そうだ……そうだな…」≫
最後はハッピーエンドではなく後味の悪さが残る。
つまり、宿題のようなものが突きつけられる。
そんな映画だった。
二つの映画に共通している点は、人生とは不条理である、という点だ。
どんなに努力してもその努力が報われるとは限らない。
ずっとうまくいっていたとしても最後の最後で足払いされてコケて終わり。
愛する人には裏切られ、振り向けば必ず嫌なやつがいたりする。
毎日同じことの繰り返し。
しかも失敗したり傷ついたりして嫌な感情は常に自己制御不可能な状態で突如襲ってくる。
それを表現する言葉は見当たらず、毎日憂鬱な精神で眠りにつき、ひとまずリセットする。
しかしまた同じことが今日も、そして明日も起こるのだ。
こうやって時間は過ぎ去っていき、最後は死んで燃やされて土の中に埋められるのだ。
こんなの嫌だ、といっても「生まれたんだからしょうがない」。
人生とは不条理そのものなのだから、それでしょうがないのだ。
二つの映画で共通している点がもう一つだけあるとしたら、それはその不条理を強めたり弱めたりするのは常に「人間関係」だということだ。しかし、あらゆる「人間関係」は「孤独」とワンセット。結局最後はひとりで死ななくちゃならない。だから、どうがんばっても仕方ないのだ。「どうがんばっても仕方ないなら死んじゃえばいい」(完全自殺マニュアル的発想)ってのも一つの答えだし、「だったら生きてやる」ってのも一つの答えだ。あとはどちらに傾くか。
それを左右するのは人生の「意味」か、「目的」か、「理由」か、それとも「気分」か。いや、いちいちこんなこと考えない方がいいのかもしれない。パスカル的な「気晴らし」によって人生のモヤモヤを雲散霧消させ思考停止させて死んだようにミイラのようになって生きるのも一つの解決策なのかもしれない。
そして、「偶然」が自分の人生を決めてしまうという不条理(受け入れ不可能なもの)を、「運命」(必然)が自分の人生を決めているのだという条理(受け入れ可能なもの)になんとか置き換える装置―スピリチュアル系や自分探し、そして宗教にいたるまで―に頼りきって生きるのも一つの方法だろう。
しかし、それはその程度で片付く問題なのか。
その程度で片付く問題だとしたら、そもそも人生ってすごく浅くて薄っぺらいもののように思えてくる。
そしたら不条理って、そもそも人生を深化させるものなのかもしれないって思えてきた。
だったらそれを癒したり考えなかったり、条理に変換してごまかしたりせずに、素直に受け入れるしか方法がないのではないか―。今回観た映画の主人公は、実際にそのように生きた人たちだった。
『人間とは何か』 マーク・トウェイン著
■『人間とは何か』マーク・トウェイン著
マーク・トウェインの人間観を投影したのが本書。構成は老人と青年の会話形式の小説になっています。
老人(マーク・トウェイン)は、人間は≪環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない≫と言います。つまり、人間には「自由意志」などなく、単に環境や外的要因によって生かされているにすぎないと主張します。青年は必死でそれに反論しようとあれこれ言い立てますが、やはり老人の方が説得的だと僕は思いました。
たとえば老人は「人間の心=自動機械」だと考えます。
≪青年―人間、要するに機械にしかすぎんてことを、あなたは本気で考えとられるんですか?
老人―そうとも。
青年―それからまた、人間の心なんていっても、結局それは自動機械みたいなもんで、コントロールなんてことは一切利かん―それはそれだけで勝手に考えるもんだってこともですか?
老人―そうとも。p103≫
≪老人―心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構いなしに考えつづけることもする。p106≫
≪老人―心って奴はあくまでも機械、完全に独立した自動機械なんだ。p111≫
≪青年― …つまり、僕がもし僕の心を勝手に放任してさえおけば、心って奴は、いくらでも自分で考えごとの材料は見つけ出してくる。僕のお節介など一切いらん。そして結局は、心ってものが、要するに一つの機械、しかも外からの力で動かされている自動機械にしかすぎんてことを証明してくれるはず。つまりいや、心なんてもの、誰か他人の頭蓋骨の中にあったところで、ちっとも変わらんほど、いわばそれほど独立したものなんだとおっしゃった…
老人―そうさ。p113≫
≪老人―人間はただ知覚するだけの動物。知覚されたものを自動的に結合するのは、つまり、その頭脳という機械なんだな。それだけの話さ。p117≫
≪老人―思うにだな、鼠の心も人間の心も、機械って点じゃ同じなんだ。p124≫
また、利他的行動によって老婆を救った男に対して老人は次のように言い放ちます。
≪老人― …いまの男の場合にしてもだよ、本当は自由意志なんてもの持ってなかった。ただ彼の気質だとか、教育だとか、そのほか、そのときの彼を形成し、つくり上げてた毎日の外部影響って奴、それがいやでも彼をそうさせただけにすぎん。つまり、老婆を救うとともに、それによって彼自身をも救おうっていう衝動が、そうさせたにすぎんのだな―さらにいえば、彼自身をその精神的苦痛、たまらないみじめさから救おうとしてやっただけの話だよ。彼が選んだんじゃない。彼自身にもどうにもならんいくつかの力がよって、いわば彼のためにした選択にすぎん。自由意志なんてのは、いつもただ言葉としてあるだけのものなんで、思うにただそれだけの話だな―事実じゃァない。自由意志―わしはそんな言葉、使いたくないね。使うなら、ほかの言葉を使う。p145≫
そしてまた老人は、「物質的価値など存在しない。あるのは精神的価値のみ」だと主張します。
≪老人― …物質的価値なんてものはない。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。いくら現実、実在の物質的価値なんてものを探し求めたところで、無駄な話―そんなもはありゃしないんだから。p151≫
≪老人― …金銭もまたシンボルにすぎん。物質的価値なんてものは全然ない。君自身はだよ、金自体のために金をほしがってるつもりかもしらんが、それはウソさ。…ある男のこれは話だが、実にあわれな話がある。その男ってのはな、たえず不満で落着きがなく、奴隷のように汗水流して働いたってんだ。そしてとうとう大した産をなした。大いに幸福だったな、有頂天だったな。が、そのときだった、たった一週間の間に、愛するもののすべてを根こそぎ疫病で奪られちまって、あとは、まったくの一人ぽっちになっちまったってんだな。財産の価値は一挙に失われちまった。そこではじめて悟ったんだが、物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。一つにそれが家族のものに与えているうれしそうな顔、それをまた目のあたり観ている彼自身の精神的満足にあったってことが、はじめてわかったんだな。なにも金そのものに物質的価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちまえば、あとにのこるものは鉄屎だけなんだ。すべてのものがそうなんだ。p151〜152≫
最後に老人は、「わたし」とは誰か、という問題に対して次のように展開します。
≪老人― …「わたし」とは誰か、「わたし」とは何かってこの問題、決して簡単じゃないんだな。たとえば君は「わたしは虹の美しさをほめる」って言った。また、「わたしは世界が円いと信ずる」とも言った。だが、そうした場合、よく考えてみりゃ、なにも必ずしも「わたし」のすべてがそう言ってるわけじゃないんだな、言っているのは、ほんの知の部分だけにすぎんのだ。…つまり、われわれ人間ってのはな、みんなこうした実にアイマイな形で「わたし」って言葉を使ってるんだ、やむをえんのかもしれんがね。言葉をかえていや、われわれ人間って奴はだな、君のいうその「全体」―青年は、「わたし」とはすべてを一つにしたある全体と考える―って奴の上に、なにかある主人、そして王ともいうべきものを想定した上で、そいつを「わたし」と呼んでいるだけ。
だから、さてそれを定義づけるとなると、たちまち困る、できんのだよ。現に知性と感情とはだ、お互いに完全に独立してはたらく。われわれにもそれはわかる。だもんだから、ついあたりを見まわしてだな、なにかその両者を統合するような支配者とでもいうか、いわば確乎不動の「わたし」として通用するものを探し求めるんだよ。いま一つ言えばだな、その「わたし」っていう代名詞を使う場合、いったい何をそれは意味してるんだか、誰のこと、なんのことを言ってるんだか、それをはっきりさせてくれるような統合者を求めるわけなんだな。ところが、もちろん、そんなことは諦めるよりほかない。そんなものはいないと正直に白状するよりほかないんだ。
そこで、わしにいわせればだな、所詮人間ってのは機械。ただの道徳メカニズム、そして知的メカニズムと、いろんなメカニズムからできてるだけにすぎん。しかもそれらのメカニズムって奴はだな、それぞれ内なる主人の衝動にしたがって、まったく自動的に作用(はたら)くにすぎんし、そのまた内なる主人って奴がだ、これはただ生来の気質と、そして無数の外部からの影響、教育の集積とから成ってるにすぎんてことだな。だからして、この機械の唯一の機能ってのは、要するに内容の善悪を問わず、ただこの主人の欲求ってかぎりにおいて、精神的満足感をえようってだけのことなんだよ。この機械の意志、これはもう絶対なんで、したがうよりほかにないし、また事実つねにしたがわれてる。
青年―おそらくその「わたし」ってのが「霊魂」なんでしょうね?
老人―そうかもしれん。だが、その「霊魂」ってのは、そもそもなんだね?
青年―いや、よくわかりませんが。
老人―そうだろう、誰にもわかるはずがない。p156〜157≫
以上がマーク・トウェインの人間観の概要です。
これは単なる人間観であって、マーク・トウェインが日常生活で人間はみんな機械だと見做して生きていたわけではないと思います。「人間とは何か」と考えた場合、説得的に論ずる方法として「人間=機械」と想定して考えればそれなりに説明できるというだけの話です。
利己的遺伝子説で有名なドーキンスは「生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎない」と言いました。つまり、「われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」と。しかし、これも生物の進化を考える場合、最も説得的に論ずる方法としての仮説であって、そう考えればうまく物事を説明できるというだけの話です。日常生活で人を見るとき、遺伝子の乗り物だとは見ない、というか見れるはずがない。
世界観や人間観はある一つのものの見方考え方であって、世の理不尽さや不条理さを沈めて受け入れ可能なものにする一つの方法だと思います。
マーク・トウェインの人間観を投影したのが本書。構成は老人と青年の会話形式の小説になっています。
老人(マーク・トウェイン)は、人間は≪環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない≫と言います。つまり、人間には「自由意志」などなく、単に環境や外的要因によって生かされているにすぎないと主張します。青年は必死でそれに反論しようとあれこれ言い立てますが、やはり老人の方が説得的だと僕は思いました。
たとえば老人は「人間の心=自動機械」だと考えます。
≪青年―人間、要するに機械にしかすぎんてことを、あなたは本気で考えとられるんですか?
老人―そうとも。
青年―それからまた、人間の心なんていっても、結局それは自動機械みたいなもんで、コントロールなんてことは一切利かん―それはそれだけで勝手に考えるもんだってこともですか?
老人―そうとも。p103≫
≪老人―心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構いなしに考えつづけることもする。p106≫
≪老人―心って奴はあくまでも機械、完全に独立した自動機械なんだ。p111≫
≪青年― …つまり、僕がもし僕の心を勝手に放任してさえおけば、心って奴は、いくらでも自分で考えごとの材料は見つけ出してくる。僕のお節介など一切いらん。そして結局は、心ってものが、要するに一つの機械、しかも外からの力で動かされている自動機械にしかすぎんてことを証明してくれるはず。つまりいや、心なんてもの、誰か他人の頭蓋骨の中にあったところで、ちっとも変わらんほど、いわばそれほど独立したものなんだとおっしゃった…
老人―そうさ。p113≫
≪老人―人間はただ知覚するだけの動物。知覚されたものを自動的に結合するのは、つまり、その頭脳という機械なんだな。それだけの話さ。p117≫
≪老人―思うにだな、鼠の心も人間の心も、機械って点じゃ同じなんだ。p124≫
また、利他的行動によって老婆を救った男に対して老人は次のように言い放ちます。
≪老人― …いまの男の場合にしてもだよ、本当は自由意志なんてもの持ってなかった。ただ彼の気質だとか、教育だとか、そのほか、そのときの彼を形成し、つくり上げてた毎日の外部影響って奴、それがいやでも彼をそうさせただけにすぎん。つまり、老婆を救うとともに、それによって彼自身をも救おうっていう衝動が、そうさせたにすぎんのだな―さらにいえば、彼自身をその精神的苦痛、たまらないみじめさから救おうとしてやっただけの話だよ。彼が選んだんじゃない。彼自身にもどうにもならんいくつかの力がよって、いわば彼のためにした選択にすぎん。自由意志なんてのは、いつもただ言葉としてあるだけのものなんで、思うにただそれだけの話だな―事実じゃァない。自由意志―わしはそんな言葉、使いたくないね。使うなら、ほかの言葉を使う。p145≫
そしてまた老人は、「物質的価値など存在しない。あるのは精神的価値のみ」だと主張します。
≪老人― …物質的価値なんてものはない。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。いくら現実、実在の物質的価値なんてものを探し求めたところで、無駄な話―そんなもはありゃしないんだから。p151≫
≪老人― …金銭もまたシンボルにすぎん。物質的価値なんてものは全然ない。君自身はだよ、金自体のために金をほしがってるつもりかもしらんが、それはウソさ。…ある男のこれは話だが、実にあわれな話がある。その男ってのはな、たえず不満で落着きがなく、奴隷のように汗水流して働いたってんだ。そしてとうとう大した産をなした。大いに幸福だったな、有頂天だったな。が、そのときだった、たった一週間の間に、愛するもののすべてを根こそぎ疫病で奪られちまって、あとは、まったくの一人ぽっちになっちまったってんだな。財産の価値は一挙に失われちまった。そこではじめて悟ったんだが、物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。一つにそれが家族のものに与えているうれしそうな顔、それをまた目のあたり観ている彼自身の精神的満足にあったってことが、はじめてわかったんだな。なにも金そのものに物質的価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちまえば、あとにのこるものは鉄屎だけなんだ。すべてのものがそうなんだ。p151〜152≫
最後に老人は、「わたし」とは誰か、という問題に対して次のように展開します。
≪老人― …「わたし」とは誰か、「わたし」とは何かってこの問題、決して簡単じゃないんだな。たとえば君は「わたしは虹の美しさをほめる」って言った。また、「わたしは世界が円いと信ずる」とも言った。だが、そうした場合、よく考えてみりゃ、なにも必ずしも「わたし」のすべてがそう言ってるわけじゃないんだな、言っているのは、ほんの知の部分だけにすぎんのだ。…つまり、われわれ人間ってのはな、みんなこうした実にアイマイな形で「わたし」って言葉を使ってるんだ、やむをえんのかもしれんがね。言葉をかえていや、われわれ人間って奴はだな、君のいうその「全体」―青年は、「わたし」とはすべてを一つにしたある全体と考える―って奴の上に、なにかある主人、そして王ともいうべきものを想定した上で、そいつを「わたし」と呼んでいるだけ。
だから、さてそれを定義づけるとなると、たちまち困る、できんのだよ。現に知性と感情とはだ、お互いに完全に独立してはたらく。われわれにもそれはわかる。だもんだから、ついあたりを見まわしてだな、なにかその両者を統合するような支配者とでもいうか、いわば確乎不動の「わたし」として通用するものを探し求めるんだよ。いま一つ言えばだな、その「わたし」っていう代名詞を使う場合、いったい何をそれは意味してるんだか、誰のこと、なんのことを言ってるんだか、それをはっきりさせてくれるような統合者を求めるわけなんだな。ところが、もちろん、そんなことは諦めるよりほかない。そんなものはいないと正直に白状するよりほかないんだ。
そこで、わしにいわせればだな、所詮人間ってのは機械。ただの道徳メカニズム、そして知的メカニズムと、いろんなメカニズムからできてるだけにすぎん。しかもそれらのメカニズムって奴はだな、それぞれ内なる主人の衝動にしたがって、まったく自動的に作用(はたら)くにすぎんし、そのまた内なる主人って奴がだ、これはただ生来の気質と、そして無数の外部からの影響、教育の集積とから成ってるにすぎんてことだな。だからして、この機械の唯一の機能ってのは、要するに内容の善悪を問わず、ただこの主人の欲求ってかぎりにおいて、精神的満足感をえようってだけのことなんだよ。この機械の意志、これはもう絶対なんで、したがうよりほかにないし、また事実つねにしたがわれてる。
青年―おそらくその「わたし」ってのが「霊魂」なんでしょうね?
老人―そうかもしれん。だが、その「霊魂」ってのは、そもそもなんだね?
青年―いや、よくわかりませんが。
老人―そうだろう、誰にもわかるはずがない。p156〜157≫
以上がマーク・トウェインの人間観の概要です。
これは単なる人間観であって、マーク・トウェインが日常生活で人間はみんな機械だと見做して生きていたわけではないと思います。「人間とは何か」と考えた場合、説得的に論ずる方法として「人間=機械」と想定して考えればそれなりに説明できるというだけの話です。
利己的遺伝子説で有名なドーキンスは「生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎない」と言いました。つまり、「われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」と。しかし、これも生物の進化を考える場合、最も説得的に論ずる方法としての仮説であって、そう考えればうまく物事を説明できるというだけの話です。日常生活で人を見るとき、遺伝子の乗り物だとは見ない、というか見れるはずがない。
世界観や人間観はある一つのものの見方考え方であって、世の理不尽さや不条理さを沈めて受け入れ可能なものにする一つの方法だと思います。
「存在理由」
最近、以下の映画を観た。
・『生きる』(監督 黒澤明 1952)
・『生きない』(監督 清水浩 1998)
・『回路』(監督 黒澤清 2001)
『生きる』は黒澤監督の名作と言われている。市役所に勤めるしがない勘治は30年間無欠勤。しかし、ある日胃がんを宣告される。余命は半年。映画では冒頭で勘治がいかにつまらない男かをナレーション形式で次のように説明している。
-------------------------------------------------
≪これがこの物語の主人公である。しかし、今この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら、彼は時間を潰しているだけだから。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとはいえないからである。
……略……
(ここで次の台詞が入る。)
「君、一度も休暇をとらないんだってね。」
「うん。」
「君がいないと役所が困るってわけか。」
「いや、僕がいなくとも役所ではぜんぜん困らんということがわかっちゃうとこまるんでね。」
……だめだ。これでは話にならない。これでは死骸も同然だ。実際この男は20年ほど前から死んでしまったのである。それ以前には少しは生きている。少しは仕事をしようとしたこともある。しかし、今やそういう意欲や情熱は少しも無い。そんなものは役所の煩雑極まる機構とそれが生み出す無意味な忙しさの中でまったくすり減らしてしまったのだ。
忙しい。まったく忙しい。しかし、この男は本当は何もしていない。この椅子を守ること以外のことに。そしてこの世界では地位を守るためには何もしないのが一番いいのである。しかし、いったいこれでいいのか。いったいこれでいいのか。この男が本気でそう考え出すためにはこの男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある。≫
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そして、小田切という若い女性と勘治とのやりとりで印象に残るシーンを以下抜粋。
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小田切:「30年。あんなところで30年。考えただけで死にそうだわ。」
勘治:「…わしはこの30年間、役所でいったい何をしたのか。いくら考えても思い出せない。憶えているのは、つまり、ただ忙しくて、しかも退屈だったってことだけだ。」
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勘治:「つまり、なぜわしが30年間ミイラのようになって働いたかというと…略…なぜわしがミイラになったかというと、それはつまり、みんなせがれのためを思って・・・ところが、せがれはぜんぜんそんなことは少しも・・・その・・・」
小田切:「でも、その責任を息子さんに押し付けるのは無理よ。だってそうでしょ。息子さんがミイラになってくれって頼んだんなら別だけど。親ってどこの親も似てるのね。うちのおかあさんもときどき今と同じような理屈を言うのよ。お前が生まれたために苦労してるんだって。そりゃ産んでくれたことは感謝するわ。だけど生まれたのは赤ん坊の責任じゃないわよ。」
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勘治:「君、わしはもうすぐ死ぬんだ。わしは胃ガンだ。君、わかるかね。どうじたばたしてもあと一年か半年で…それは分かってくれ。…略…君を見てると何か、何か温かくなる。君は若い、健康で。つまり、つまり君はどうしてそんなに活気があるのか。まったくその…活気がある。それがわしにはこのミイラには羨ましい。わしは死ぬまでに一日でもよい。とにかく生きて…その…生きて死にたい。そうでなければとても死ねない。つまり、このわしは…何か何かすることが…何かしたい。ところが、ところがそれがわからない。…役所でいったい何を。…もう、遅い。」
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この映画の主題は、ただ黙々と退屈で忙しくて無意味な仕事に一生を捧げた男が、死ぬ寸前にそのはかなさに気づき、どうせ死ぬならちゃんと「生きて」から死にたいと願うところにあると思った。つまり、胃ガンになる前の勘治はまったく生きていない。胃ガンを宣告された後に彼は自己のミイラ性に気づき、30年間まったく生きていなかったことに気づく。
この映画の主題は現代でもぜんぜん色あせておらず、いま社会で生きているほぼすべての人の心に突き刺さってくるのではないだろうか。この映画は単なる暗い哀しい物語ではなく、かといってホラー映画とは異質な恐怖を放っている。
次に『生きない』。
病苦や生活苦に苦しむ人たちが保険金目当ての自殺を決意し、みんなで一緒に自殺目的のバスツアーに参加する映画。ツアーに参加した人たちには一人ひとりいろんな自殺動機を抱えている。が、ただ一人その理由が不明な人物がいる。それはこのツアーを企画した新垣(ダンカン)だ。関係のない生きる気満々の明るい女性―「生きてれば必ず良いことありますよ」とか言う奴―が一人だけ間違ってツアーに参加してしまうが、それ以外の人たちは死ぬ理由がはっきりしている。しかし、このツアーを計画しツアーを統率している新垣の死にたい理由は最後までわからない。
たぶん、この新垣には明確なる死ぬ理由というものはなく、かといって明確なる死なないでいる理由もなかったのではないか。つまり、生きているのと死んでいるのはまったくの等価なのではないか、という疑惑に気づき、その生と死の等価性を確信してしまった人物のように見えた。
次に『回路』。
この映画のテーマは「孤独」。あるいは「死んだらどうなるか」といった霊魂モノ。
印象に残るシーンをピックアップしてみた。
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(パソコンに「●」のような点がたくさんうごめいているCGを川島が見ながら…)
川島(加藤晴彦):「これ何?」
春江(小雪): 「二つの点があんまり接近しすぎると死んじゃうし、あんまり離れすぎると近づこうとするようにプログラムされてるの。」
川島:「何に使うの?」
春江:「人間の生存環境について調べてんだけど、詳しいことはわからないんだ。…それ、あんまり見てると嫌になるよ。」
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(川島の自宅で…)
春江:「川島君はどうしてインターネットなんて始めたの?」
川島:「え、どうしてって…」
春江:「別に好きじゃないんでしょ、パソコン。」
川島:「うん」
春江:「他人とどこかで繋がっていたいから?」
川島:「そうなのかな、よくわかんない。」
春江:「ほんとは繋がってないよ、人間なんて。」
川島:「えっ?」
春江:「コンピュータの点と同じ。一人一人バラバラに生きてる。そんな感じするな。」
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(行方不明の友達を気づかう女性が会社の社長に…)
女性:「あの社長、矢部君、ちょっと変ですよね。」
社長:「へぇ〜そうなの。」
女性:「私、ちょっと見てきてもいいですか。」
社長:「うん、いいけど。でも、ムダかもしれないよ。人を助けようとして良かれと思ってかけた言葉が結局いつもより深く相手を傷つけることになるよね。そのことで自分もまた傷つくし。コミュニケーションってそういうもの? それじゃどうすればいい? 私ならたぶん…何もしないな。それも一つの勇気のいる選択肢だと思うしね。」
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(春江の自宅で…)
春江:「わたしね、死んだらどうなるんだろうって小さい頃からいつも考えてたの。ずっと一人だったし。」
川島:「親とか兄弟は?」
春江:「いるよ…でも関係ない。」
川島:「はぁ・・・」
春江:「死んじゃえばさ、あっちの世界でみんなと楽しく暮らせるんじゃないかなって。」
川島:「ねぇ、やめない、そういうこというの。」
春江:「だってそうかもしれないでしょ。」
川島:「いや、まあ…」
春江:「でも高校のとき、ハッと気がついたの。死んでもずっと一人だったらどうする?」
川島:「わかんないよ、そんなこと。わかるわけないよ。」
春江:「それってものすごく怖い。怖くて怖くてたまらなくなったの。だって死んでも何も変わらなくて今のまんまが永久に続くのよ。…それが幽霊になることなのかな。」
川島:「いや、そういうのやばいよ。まともじゃないって。幽霊がどうなろうと俺たちには関係ないじゃん。今こうやって生きてんだしさ。」
(略)
川島:「たださ、俺は今こうやって生きてるし、春江もちゃんと生きてるし、それは間違いないことだろ。だからいつか必ず死ぬなんて俺は考えたくないな。ひょっとしてあと何十年かたってさ…いや俺たちが生きてる間でいいや。絶対に死なないクスリとかができてさ、そうしたらずーっといつまでも生きられるんだよ。まあ、そんなこと言ったらバカじゃないって思われるかもしれないけど。俺はそっちに賭けるな。」
春江:「永遠に生きたいの?」
川島:「ああ。」
春江:「それって楽しい?」
川島:「ああ。俺はそう思うな。何か…俺まちがってんのかな。」
春江:「…そのうち川島君の言うとおりになるよ、きっと。」
川島:「え?」
春江:「幽霊は人を殺さない。そしたらただ幽霊が増えるだけ。そうでしょ。彼らは逆に人を永遠に生かそうとする。ひっそりと孤独の中に閉じ込めて。」
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(幽霊と遭遇する川島…)
幽霊:「助けて・・・」
川島:「知らねえよそんなこと。俺には関係ねぇだろ…」
幽霊:「永い…永遠の孤独…」
川島:「おまえは幻だ。俺は認めない。絶対認めないからな。俺は死なんか認めない。」
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絶望的な孤独感を抱いていた春江は、最後は拳銃で自殺する。生の苦しみや孤独に耐えきれずに死を選んでも、死後の世界が今とぜんぜん変わらない世界だとしたらどうだろう。生の苦しみや孤独がただ持続するだけだとしたら。
『生きる』と『生きない』を観てまず思ったことは、鶴見済の『完全自殺マニュアル』の「はじめに」を読んで感じたこととほぼ同じ内容のことだった。『生きる』の勘治は、生きているけど死んでいる(ミイラ)。そしてそのことに死ぬ寸前で気づき、胃ガンで死んでいく(最期は公園で凍死する)。『生きない』の新垣は、死ぬ理由も生きる理由もない。だから、生きない。そして、岩壁から飛び降りるのだ。この二つの映画の内容は、まさに『完全自殺マニュアル』の「はじめに」に書いてある内容にほぼリンクしている。
以下の内容が頭をよぎる。
≪22世紀まで僕たちはマイニチマイニチ朝7時に起きて、学校や会社に通って、とりとめのないムダ話を繰り返す。…テレビのスイッチを消してまわりを見回すと、いつもとなんにも変わらない毎日があるだけだ…三島由紀夫は自伝的小説『仮面の告白』のなかで「戦争より『日常生活』のほうが恐ろしかった」って書いた。僕たちはガマンにガマンを重ねながら、この「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」を生きていく。…テレビのドラマみたいなハッピーエンドはない。ただグロテスクな“ハッピー”が延々と続いていくだけだ。
…あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。
…こうして無力感を抱きながら延々と同じことをくり返す僕たちは、少しずつ少しずつ、“本当に生きている実感”を忘れている。生きているんだか死んでいるんだか、だんだんわからなくなってくる。「生きてるんだなぁ」ってどういう感じだったっけ? 今や生きていることと死んでいることは、消えかかりそうな、ほそーい境界線で仕切られているだけだ。≫(『完全自殺マニュアル』より)
生きるのがイヤだったら死ねばいいじゃん、というのが『自殺マニュアル』の主旨だ。つまり、≪…そう、もう死んじゃってもいい。学校や会社に行ったり、生きているのがイヤだったり、つまんなかったり、それどころか苦しかったりするんなら、細い境界線を踏み越えて死んじゃえばいい。誰にもそれを止めることなんかできない。≫(前掲書より)
だが、『回路』はそれを否定する。死んでも今と同じ状態がただ持続するだけだったら、と揺さぶりをかけてくる。残された最終手段である「自殺」すら無化されてしまうのだ。
考えてみれば、生まれるべくして生まれた人間はいない。どこまで問い詰めても生まれた理由が分からない。そして、生きてる理由もわからない。ということは、次の結論を導く。即ち、生まれた理由がわからない以上、いま世界に生きている65億の人間はみんな生まれても生まれなくてもどちらでもよかったのだ、と。自己の根源的な存在理由は何もない。つまり、たまたまこの世に生まれたにすぎない。
しかし、それでは堪えきれない。自分は生まれても生まれなくてもどうでもいい存在だなんて認めたくない。なぜなら、生まれても生まれなくてもどちらでもいいということは、要は生きてても死んでてもどちらでもいいということに限りなく等しい極刑のような真実だからだ。したがって、宗教やら世俗的な欲望(仕事・恋愛・結婚・消費など)の充足によって、その存在の不安を忘却するしか方法がない。
「あなたは誰ですか?」という質問にどうやって答えることができるだろうか。誰かは「○○会社の●●ですが」と答えるかもしれない。しかし、先ほどと同じように「○○会社の●●さん、あなたは誰ですか?」と問うことが可能だ。いくら「△△の夫の●●です」とか「××の父の●●です」と言っても無駄だ。同じようにいくらでも「あなたは誰ですか?」という質問の答えにはなっていない。ならば、単に「●●です」と自分の名前だけを言ってみたらどうだろう。だが、同じように「●●さん、あなたは誰ですか?」と問うことができる。
この質問は単に名前を聞いているのではない。自己紹介レベルの質問ではないのだ。だから、肩書きや生まれた場所や結婚してるとか子どもがいるとか身長が何センチだとか色白だとかそういったことをいくら並べ立てても答えられない。
たとえば、記憶喪失になってしまい自分の名前すら忘れてしまったと仮定してみたらどうだろう。そのとき「あなたは誰ですか?」という質問に答えられるだろうか。この質問に答えられなくても現に記憶喪失の「あたな」は存在しているはずだ。なのにその質問に答えられないのはどうしてか。これは考えれば考えるほど不思議な問いである。
その不思議さは、自分は「生まれても生まれなくてもどうでもいい存在」ってことを臭わせる。
やはり最後はミスチルの「未来」でフェードアウトだ。
生きてる理由なんてない
だけど死にたくもない
こうして今日をやり過ごしてる
生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じてれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて 目を閉じて過ごしている
(Mr.Children「未来」(作詞 桜井和寿)より)
ひるのせかい
ほとんど人を褒めない中島義道氏が『私の嫌いな10の人びと』の中で「夜回り先生」こと水谷修さんを絶賛している。
≪…親をはじめ大人たちに見離され、夜の街に出て、薬物に漬かっていく少年たちを救わねばという彼の意志にはすごいものがある。その揺らぐことのない信念に基づいた行動力には、脱帽するしかありません。
私は、じつは二度ほど彼に会ったことがあるのですが、なかなかの二枚目で、誠実さが全身から匂うような(ですから私とはかけ離れた)風貌の男です。彼の言葉には嘘はない。どこまでも真実です。衒いもない。彼は本心から、ただ少年たちに立ち直ってもらいたいがために行動している。そのすべてに裏はありません。結果として有名になり、多くの少年たちやその親たちやその教師たちに呼びかけるためには、有名であるほうがいいのですが、彼にとって有名であるとはそれ以上の意味がないことがひしひしと伝わってくる。どこまでも尊敬すべき人物のように思われました。≫(『私の嫌いな10の人びと』〜「夜回り先生」より)
しかし中島氏は、その夜回り先生が講演活動で主張している「昼の世界に戻ればすばらしい人生がまっている」という点に対してだけは違和感を覚えるという。つまり、夜の世界の子どもたちがうまく立ち直って昼の世界に復帰したとしても、昼の世界に待ち構えているのは「すばらしい人生」などではなく、学校、就職、労働、結婚、子育て…といったような「普通のこと」の連続の日々でしかない。
そのような「終わりなき日常」の虚しさについては、鶴見済さんが『完全自殺マニュアル』(「はじめに」)で述べていたことでもある。以下、その部分を引用してみる。
≪…「つまんない」なんて言ってもしょうがない。僕たちは運悪く歴史のそういうステージに生まれついてしまったんだから。
22世紀まで僕たちはマイニチマイニチ朝7時に起きて、学校や会社に通って、とりとめのないムダ話を繰り返す。学校では英単語や歴史の年号を何度も暗記して、会社では「つまんねー」なんて言いながら、本当につまらない仕事を1週間、1ヶ月、1年なんていうサイクルで何週間も何ヶ月も繰り返す。
延々と最先端スポットができ続けて、延々と政治家は汚職をし続けて、テレビのなかは延々と激動し続ける。だけどテレビのスイッチを消してまわりを見回すと、いつもとなんにも変わらない毎日があるだけだ(テレビを消したあとの、あの奇妙な暗さを覚醒させることが、このほんのもうひとつの狙いだ)。
三島由紀夫は自伝的小説『仮面の告白』のなかで「戦争より『日常生活』のほうが恐ろしかった」って書いた。僕たちはガマンにガマンを重ねながら、この「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」を生きていく。得たいのしれない“安定した将来”をしっかり引きつけておくために。一歩一歩慎重にコースを踏み外さないように気をつけながら。
テレビのドラマみたいなハッピーエンドはない。ただグロテスクな“ハッピー”が延々と続いていくだけだ。
そう。キーワードは「延々」と「くり返し」だ。延々と続く同じことのくり返し。これが死にたい気持ちを脹らます第1の要素だ。
…むかし「人ひとりの命は地球より重い」なんて言った裁判官がいた。だけどこれはくだらない誤解だ。…70年代の末にイギリスのロックバンドが「僕たちは壁のなかの1個のレンガだ」って歌って大ヒットさせた。90年代になったからって、少なくともこの日本じゃ、状況はなにひとつ変わっちゃいない。相変わらず僕たちは、無力な壁のなかの1個のレンガだ。その証拠に、僕たちの誰かが死んだって、必ず別の誰かが代わりにやってくれる。誰ひとりとしてかけがえのない存在なんかじゃない。暗殺するに足る政治家もいない。レンガが1個なくなったくらいじゃ壁は壊れない。
僕たちひとりひとりが無力で、いてもいなくてもどうでもいい存在で、つまり命が軽いこと。これが死にたい気持ちを脹らます第2の要素。
…こうして無力感を抱きながら延々と同じことをくり返す僕たちは、少しずつ少しずつ、“本当に生きている実感”を忘れている。生きているんだか死んでいるんだか、だんだんわからなくなってくる。「生きてるんだなぁ」ってどういう感じだったっけ? 今や生きていることと死んでいることは、消えかかりそうな、ほそーい境界線で仕切られているだけだ。
…そう、もう死んじゃってもいい。学校や会社に行ったり、生きているのがイヤだったり、つまんなかったり、それどころか苦しかったりするんなら、細い境界線を踏み越えて死んじゃえばいい。誰にもそれを止めることなんかできない。
前にも書いたけど、生きてたって、どうせなにも変わらない。エスパーじゃなくても、だいたいこれからどの程度のことが、世の中や自分の身に起こるのかもわかっている。「将来、将来!」なんていくら力説してもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。≫(『完全自殺マニュアル』より)
こういった「終わりなき日常」&「どうせ死んでしまう」という理不尽&虚しさに対して、夜回り先生は素朴すぎるのではないか、と中島氏は指摘する。
≪…昼の世界で生きつづけても結局はつまらないことを知ってしまった者たちに対して、慰める言葉を私は持ち合わせていません。言いかえれば、水谷さんは「自分に鞭打って昼の世界に戻り、血が出るほどの努力をして生き抜いても、それでも結局いつか死んでしまうんだ」という叫び声に対して、答えを与えていない。水谷さんにとっては、青年たちがさしあたり昼の世界で元気に生きてくれればいいのであって、それはよくわかるのですが、私はこの問いをごまかしては、何ごとも始まらないと思っていますので、違和感が残るということです。≫(『私の嫌いな10の人びと』)
ちなみに問いをごまかして生きる―「終わりなき日常&どうせ死んでしまう」という理不尽さを考えないようにして生きる方法―としては、パスカル的な気晴らし―「気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことを考えないことにした」(パンセ)―しか残されていない。
あるいは鶴見氏の言うように自殺もアリだろう。だが、世の中の殆どの人は前者(気を紛らすこと)を選択し、鶴見氏の「プラン」(安定した将来)に向かって“グロテスクなハッピー”を夢みて生きることを望み、そして結局どうせ死ぬのだ。
≪…親をはじめ大人たちに見離され、夜の街に出て、薬物に漬かっていく少年たちを救わねばという彼の意志にはすごいものがある。その揺らぐことのない信念に基づいた行動力には、脱帽するしかありません。
私は、じつは二度ほど彼に会ったことがあるのですが、なかなかの二枚目で、誠実さが全身から匂うような(ですから私とはかけ離れた)風貌の男です。彼の言葉には嘘はない。どこまでも真実です。衒いもない。彼は本心から、ただ少年たちに立ち直ってもらいたいがために行動している。そのすべてに裏はありません。結果として有名になり、多くの少年たちやその親たちやその教師たちに呼びかけるためには、有名であるほうがいいのですが、彼にとって有名であるとはそれ以上の意味がないことがひしひしと伝わってくる。どこまでも尊敬すべき人物のように思われました。≫(『私の嫌いな10の人びと』〜「夜回り先生」より)
しかし中島氏は、その夜回り先生が講演活動で主張している「昼の世界に戻ればすばらしい人生がまっている」という点に対してだけは違和感を覚えるという。つまり、夜の世界の子どもたちがうまく立ち直って昼の世界に復帰したとしても、昼の世界に待ち構えているのは「すばらしい人生」などではなく、学校、就職、労働、結婚、子育て…といったような「普通のこと」の連続の日々でしかない。
そのような「終わりなき日常」の虚しさについては、鶴見済さんが『完全自殺マニュアル』(「はじめに」)で述べていたことでもある。以下、その部分を引用してみる。
≪…「つまんない」なんて言ってもしょうがない。僕たちは運悪く歴史のそういうステージに生まれついてしまったんだから。
22世紀まで僕たちはマイニチマイニチ朝7時に起きて、学校や会社に通って、とりとめのないムダ話を繰り返す。学校では英単語や歴史の年号を何度も暗記して、会社では「つまんねー」なんて言いながら、本当につまらない仕事を1週間、1ヶ月、1年なんていうサイクルで何週間も何ヶ月も繰り返す。
延々と最先端スポットができ続けて、延々と政治家は汚職をし続けて、テレビのなかは延々と激動し続ける。だけどテレビのスイッチを消してまわりを見回すと、いつもとなんにも変わらない毎日があるだけだ(テレビを消したあとの、あの奇妙な暗さを覚醒させることが、このほんのもうひとつの狙いだ)。
三島由紀夫は自伝的小説『仮面の告白』のなかで「戦争より『日常生活』のほうが恐ろしかった」って書いた。僕たちはガマンにガマンを重ねながら、この「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」を生きていく。得たいのしれない“安定した将来”をしっかり引きつけておくために。一歩一歩慎重にコースを踏み外さないように気をつけながら。
テレビのドラマみたいなハッピーエンドはない。ただグロテスクな“ハッピー”が延々と続いていくだけだ。
そう。キーワードは「延々」と「くり返し」だ。延々と続く同じことのくり返し。これが死にたい気持ちを脹らます第1の要素だ。
…むかし「人ひとりの命は地球より重い」なんて言った裁判官がいた。だけどこれはくだらない誤解だ。…70年代の末にイギリスのロックバンドが「僕たちは壁のなかの1個のレンガだ」って歌って大ヒットさせた。90年代になったからって、少なくともこの日本じゃ、状況はなにひとつ変わっちゃいない。相変わらず僕たちは、無力な壁のなかの1個のレンガだ。その証拠に、僕たちの誰かが死んだって、必ず別の誰かが代わりにやってくれる。誰ひとりとしてかけがえのない存在なんかじゃない。暗殺するに足る政治家もいない。レンガが1個なくなったくらいじゃ壁は壊れない。
僕たちひとりひとりが無力で、いてもいなくてもどうでもいい存在で、つまり命が軽いこと。これが死にたい気持ちを脹らます第2の要素。
…こうして無力感を抱きながら延々と同じことをくり返す僕たちは、少しずつ少しずつ、“本当に生きている実感”を忘れている。生きているんだか死んでいるんだか、だんだんわからなくなってくる。「生きてるんだなぁ」ってどういう感じだったっけ? 今や生きていることと死んでいることは、消えかかりそうな、ほそーい境界線で仕切られているだけだ。
…そう、もう死んじゃってもいい。学校や会社に行ったり、生きているのがイヤだったり、つまんなかったり、それどころか苦しかったりするんなら、細い境界線を踏み越えて死んじゃえばいい。誰にもそれを止めることなんかできない。
前にも書いたけど、生きてたって、どうせなにも変わらない。エスパーじゃなくても、だいたいこれからどの程度のことが、世の中や自分の身に起こるのかもわかっている。「将来、将来!」なんていくら力説してもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。≫(『完全自殺マニュアル』より)
こういった「終わりなき日常」&「どうせ死んでしまう」という理不尽&虚しさに対して、夜回り先生は素朴すぎるのではないか、と中島氏は指摘する。
≪…昼の世界で生きつづけても結局はつまらないことを知ってしまった者たちに対して、慰める言葉を私は持ち合わせていません。言いかえれば、水谷さんは「自分に鞭打って昼の世界に戻り、血が出るほどの努力をして生き抜いても、それでも結局いつか死んでしまうんだ」という叫び声に対して、答えを与えていない。水谷さんにとっては、青年たちがさしあたり昼の世界で元気に生きてくれればいいのであって、それはよくわかるのですが、私はこの問いをごまかしては、何ごとも始まらないと思っていますので、違和感が残るということです。≫(『私の嫌いな10の人びと』)
ちなみに問いをごまかして生きる―「終わりなき日常&どうせ死んでしまう」という理不尽さを考えないようにして生きる方法―としては、パスカル的な気晴らし―「気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことを考えないことにした」(パンセ)―しか残されていない。
あるいは鶴見氏の言うように自殺もアリだろう。だが、世の中の殆どの人は前者(気を紛らすこと)を選択し、鶴見氏の「プラン」(安定した将来)に向かって“グロテスクなハッピー”を夢みて生きることを望み、そして結局どうせ死ぬのだ。